代表略歴(2011年6月10日更新)

1994年3月

東京大学経済学部卒業。伊藤元重ゼミ所属。卒業論文特選受賞(PDF)

1994年4月

東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)入行

1994年10月退行

(総合職同期で一番早かった(^^;))

1995年1月-3月

古河市東公民館でアルバイト。おもに Mac を使ったパンフレット作成。

1995年4月-6月

富士重工業伊勢崎工場でバス製造に従事。沖縄に行くお金を貯める。

1995年7月-10月

沖縄にアパートを借りて住む。コピー機販売の飛び込み営業をするものの、あまりに自分の性格に合わず、わずか3週間で退職(とほほ・・・)

1995年10-12月

茨城の実家に戻りブラブラする。

1996年1月-3月

警備員のアルバイト。東京に行くお金を貯める。

1996年4月

再び上京。学生時代と同じ明大前のアパートを借りて住むことに。

1996年4月-12月

(有)MIU勤務。ここでプログラマのバイトを開始する。当時は日本でインターネットのはやり始めで、雨後のたけのこのように中小のインターネットサービスプロバイダーが台頭しつつあるころだった。私は、Solaris サーバの管理の手伝いをする。この会社でパソコンの組み立て方も習った。シェルや Perl の書き方も習う。6月からは、東芝の分倍河原の巨大な事業所で、国のある大規模なシステム開発に参加させられそうになるものの、Visual Basic に興味が持てず、すぐにやめる。

1997年1月-1997年3月

当時、それなりに知名度があったリムネットというインターネットプロバイダに入社する。社内システムの開発に携わる。BSD/OS / Apache / PHP / Java Applet といった技術を使って、社内の会議室予約システムを作りはじめた。ところがこの会社、入ってみてビックリ。社内の派閥抗争がすごかったのである。そのあまりの陰湿さに耐えられずやはり3ヶ月で退社の憂き目に。

1997年4月-1997年6月

(有)テレパスに勤務。杉並インターネット互助会(というとても興味深い会)に参加したときに、秋山卓司氏(現日本コモド株式会社社長)が出会う。彼に誘われ、(有)テレパスへ。テレパスでやっていることはユニークだった。当時は、日本気象協会がらみの仕事が多かった。気象情報の数値信号を日本語化するプログラムを Perl で作ったことをよく覚えている。あとは、Turbo C か何かで医療器具のモニターを作る仕事。けっこう楽しく仕事をしていたのだが、なんせ彼と二人きりということもあり、気の短い私は、秋山さんと喧嘩してやめてしまった。(でも秋山さんのことはいまでも尊敬しています)

1997年7月-1997年11月

スタジオノマドという屋号で、個人事業主として独立する。当時 Perl に入れ込んでいて、なんとか Perl で飯を食べようとするものの、ものの見事に失敗。当時は、まだ Web で商売ができるかどうか世間では懐疑的で Perl で飯を食うのは難しかった。他にもいろいろアルバイト的な仕事をしてはみるものの、最後は金がなくなり、勤め人に戻る決意をする。

1997年12月-1998年10月

(株)テンアートニ(いまのサイオステクノロジー株式会社の前身)で働く。身分はアルバイトだったけど、月給で50万以上もらっていたので、生活は楽になった。なんせ働き始める直前は、野菜をスーパーから万引きしようかと思うほど、カネに困っていたので。テンアートニは、Linux と Java の日本初の専業会社を標榜して登場した、当時にしては相当尖った会社だった。テンアートニは大塚商会の子会社だが、大塚商会の花形販売管理システム「スマイルアルファ」を Visual Basic から Java に移植しようとするプロジェクトに参加した。

ここで、私は心の師、福嶋正則氏に出会う。彼は、私より5つ下で当時早稲田大学の大学院生であったけれども、圧倒的に優秀なエンジニアであった。生身のエンジニアとしてはいまも彼より優秀な人物を見たことがない。彼にデータベースアクセスを抽象化するクラスライブラリの作成を依頼したところ、彼はわずか3週間で3000行にも及ぶプログラムを書き上げた。ソースコードは驚異的な美しさで、驚いたことにバグは一つもなかった。それを彼は学業の余暇を縫って片手間でやってしまったのである。まさに神業としかいいようがない。いまだに僕は彼のことを思うと背筋がぞくぞくするのだ・・・。Rubyの存在を教えてくれたのも彼だった。いまは KDDIの研究所で働いているらしい。元気にやっているだろうか・・・。

もう一人であった印象深い人物は山崎靖之氏(現サイオステクノロジー株式会社執行役員)である。山崎さんは、私より7歳くらい年上の人であったが、私を一人前のエンジニアとして敬意をもって接してくれた。山崎さんは、当時、プロジェクトマネジャーとして活躍していた。僕は非常に強情で周囲ともよく摩擦を起こしたが、彼は非常に忍耐強く私を使ってくれた。その点はいまだに深く感謝している。私にとっては、理想の上司であり、プロマネのロールモデルである。

テンアートニでは他にもいろんな人たちとの出会いがあり、とても楽しかったけれども、まだ会社の体制がうまく固まっておらず、技術レベルが高いとはいえなかったため、「次」を目指して退社してアイルランドへ1ヶ月語学留学した。それから1997年は12月は仕事を休み、翌1月から仕事を開始したのだが・・・。

1999年1月-1999年3月

悪夢の3ヶ月となる (株)NSW での勤務。パソナテックからの紹介で、派遣社員として働いた。結果からいうとこれは私にとって大失敗だった。モバイル機器(WIndows CEベース)とサーバのデータベースを組み合わせた営業支援システムを開発していたのだが、チームメンバとソリが合わず、孤立してしまい、とても辛い思いをした。C++ が難しすぎたのかもしれない(笑)海外に行きたいという気持ちは、テンアートニにいたころから強くなってきており、この仕事が終わったら海外に行こうと決めていたので、心ここにあらずという感じだったのかもしれない。これは、僕の仕事人生の最大の失敗になってしまった。

1999年4月

留学先を見つけようとアメリカを2週間旅行する。しかし、その滞在中にデンバー郊外の高校で銃虐殺事件が起こり、アメリカの銃社会が怖くなってしまい、行き先をカナダに変更する。本当は、シリコンバレーで働きたかったのだが・・・。

1999年5月-12月

トロント在住。語学学校に通う。カナダ人宅にホームステイしたり、アパートを間借りして、それはそれは夢のように楽しい時を過ごした。

2000年1月-4月

ブリティッシュコロンビア州ビクトリア在住。州立ビクトリア大学でコンピュータサイエンスを学ぶ。簡単すぎてつまらず、辞めてしまう。(成績は 2個のA+ と2個のAだった)

2000年5月-2001年1月

トロントに戻って、独学で英語を学びながら暮らす。カナダ人と一緒に暮らしたり、いろんな国の友達と付き合ったり、楽しく過ごした。早く仕事をしたいと内心願っていたが、就労ビザがないので仕方がなかった。ようやく10月にカナダ待望の永住権を取得。

2001年2月

トロントの小さなソフトハウス LynxDev Inc に勤務。ラジオ番組の配信会社(Sound Source)の基幹システムを手がける。Visual Basic + Microsoft SQL Server という環境だった。このお客さんはマスコミ関係のせいかカナダ人のせいかいつも冗談を言ってとても楽しい人たちだった。私は、詳細設計からテスト・運用までほぼ1人でやり通した。たぶん普通なら3人くらいで作るシステムだったろう。いままでの人生で一番気合を入れた仕事だったし、いまでも誇りである。異文化の中、英語でやりぬいたのは偉かった、のではないかな。お客さんも納品物にはとても満足していて、お礼のプレゼントまでくれた。しかし、私はこの仕事ばかりに入れ込みすぎて、社内では不評を買ってしまう。このころから社長とうまくいかなくなってしまった。Sound Source の仕事が終わったあとは、いい仕事が回ってこなくなり、仕事に対する興味もだんだん薄れてしまった。代わって台頭してきたのは、言語に対する興味だった。トロントが多民族都市だったことが大きい。

2003年5月-11月

韓国ソウルの延生大学の語学学校で韓国語を学ぶ。韓国語と韓国料理漬けの非常に楽しい半年間であった。

2003年12月-2004年7月

中国の海南島と大連で中国語を学ぶ。中国の生活はよくもわるくも「すごかった」の一語に尽きる。すさまじい国であった。あの国と付き合うのには、体力が要るということがよくわかった。お茶と太極拳は良かったけどね。

2004年7月-2004年9月

再び韓国ソウルに戻って9月の韓国語能力試験の準備をする。試験結果は5級合格と上出来であった。(6級が最高)

2004年10月

オーストラリア一人旅。

2004年11月-2005年6月

パトゥニ・コンピュータ・システムでオンサイト・コーディネータを勤める。パトゥニは、従業員1万人を超えるインドの大手 IT 企業である。日本のお客さん(私の場合は東芝だった)とインド人エンジニアの橋渡しをする仕事。ブリッジエンジニアと言ってもよい。インド人は、頑固ではあるが、優秀だった。東芝とのあるプロジェクトでは、インド人のプロジェクトマネジャがあまりに優秀で、私の仕事がほとんどなかったくらいだ。パトゥニは良い会社だと思ったが、オンサイト・コーディネータというポジションは、どうも雑用的な感じがして、この先続けていっていいものか迷いがあった。そう思っている中、ある炎上プロジェクトに投入され、そこで日本人顧客とインド人エンジニアやマネジャの完全な板ばさみに合ってしまう。私は、現場を見て、非の一部はインド人エンジニアにあるように感じられたが、インド人たちは持ち前の頑固さで認めようとしない。このころから、私はパトゥニから心が離れていってしまった。まあ、パトゥニの名誉のために言っておくと、決して悪い会社ではないし、インド人たちは基本的にすごく優秀だ。ただ、そのときはこんなことをしてても仕方ないな、と思ってしまったのだ・・・。

2005年7月-2006年2月

組織の論理にすっかり幻滅した私は、なんとか一人で稼いで生きていく道はないかと考えた。そこで目につけたのが、株式投資だった。(笑われるかもしれないが・・・)私は、株式投資について徹底的に研究した。いろいろ研究を進めていくうちに、システムトレーディングという分野が興味深いことに気がついた。システムトレーディングとは、ある価格の変動パタン(シグナル)に応じて機械的に売買する投資方法である。アメリカには TradeStation というその道では一番人気のあるソフトウェアがあるのだが、30万円もする。そこで私は、それに似たソフトを開発しようと考えた。それが TS8 だが・・・。投資法の研究と同時にソフトウェア開発をするのは、なかなか難しく、どうしても思ったようなものまでは開発できなかった。ある程度、シグナルを織り込むことには成功したのだが。株式投資では、最初は100万円ほど儲けたが、2006年1月のいわゆるライブドアショックで、その利益はすべて吹っ飛んでしまった。(別にそのことで市場を責めるつもりはない。要は、下手だったのだ)一度 IT 業界で働いてみたいという気持ちが高まってきた。

2006年3月-2006年8月

Westlaw Japan で働く。パトゥニのインド人営業が私に声を掛けてきて誘ってくれた。そこで私はパトゥニの契約社員として、パトゥニの顧客である Westlaw Japan に派遣された。Westlaw Japan は米トムソンコーポレーションと日本の新日本法規出版が合弁で作った法律情報提供会社である。この事業は始まったばかりで、その立ち上げの作業に参加したのだった。私は、最初はプロジェクトマネジャとして働いていたのだが、後半はシステムエンジニアに近い内容の仕事にシフトした。外国人の上司とインド人と日本人の同僚に囲まれて刺激的な日々を過ごした。東京と名古屋の間を毎週行き来する忙しくも充実した日々だった。仕事は楽しく、プロジェクト完了予定の2年後まで働く都合だったが、Westlaw の社内的な事情で私はプロジェクトを外れることになった。これはとても残念であったが、仕方なかった。

2006年9月-2006年12月

周囲の人たちに背中を押され、ついに株式会社ソフトカルチャーを立ち上げる。しかし、明確なビジネスプランを持つわけではなかったので、なかなかするべき仕事が見つからず苦労する。

2007年1月-2007年3月

横浜でモバイル端末用のソフトウェアの開発エンジニアとして参加した。PHP でサーバの管理画面と VC++ でモバイル端末の操作画面を製作。エンジニアのマッチング会社から実質派遣して、客先常駐しての勤務であった。元請のエンジニアは優秀ではあったが、私は下請けとしての悲哀も味わう。顧客とリスクと利益を共有しない請負契約というのは、ソフトウェア製作には向いていないのではないだろうか。

2007年4月-2007年5月

東京で Ruby on Rails を使った EC サイトの構築に携わる。非常に幸いなことに、私は元請として設計から実装まで私一人で行ったので、非常にやりやすかった。納期はかなりきつく、ソフトカルチャーとしては予算オーバーしてしてしまったのは反省点だが、拡張性・保守性が高い Rails らしい作品に仕上げることができたように思う。Rails のソースコードを読み込み、その美しさとパワーにはただ驚嘆。

2007年6月-2007年9月

Ruby on Rails で、ある不動産検索サイトの制作に携わる。私の担当は、全体設計と検索エンジンの実装であった。

2007年9月-2007年10月

Ruby on Rails で神保町のポータルサイト「神保町へ行こう」の制作。私の担当は「神保町マップ」「私の神保町」の設計および実装。

2007年11月-2007年12月

Ruby on Rails で「Kanji-Fandom」の制作。

2008年1月-2008年9月

Ruby on Rails + Javascript で「コモンズマーカー」の制作。 Javascript で制作した部分が難しすぎて気が狂いそうになる。なんとかプログラミングをやらなくても飯を食う方法はないか考え始める。この期間、インドネシア・中国へ旅行。新興国の活力に魅力を感じる。ベトナムでのビジネスを考え始める。ベトナム語学習開始。

2008年10月-2009年5月

ベトナム南部の大都市ホーチミン市で暮らし始める。まずは現地に溶け込むべくベトナム人の友人を作ったり、ベトナム語を学んだりした。2008年11月-12月はホーチミン市人文社会科学大学、2009年1月から5月はホーチミン市師範大学でベトナム語学習。もともと語学好きだったため、ベトナム語の学習は本格的なものになった。一方で Ruby on Rails 遣いのベトナム人を探すべく奔走するもの、ベトナムではなかなか見つからないa>。ビジネスのきっかけを見つけられずやや焦り始める。

2009年6月-2009年11月

ホーチミン市を拠点として、オフショア開発の顧客を東京やバンコクで求めるが、意思疎通がなかなかうまく行かない。一つの理由はオフショアであることだが、もっとも大きな理由は、顧客たちの仕事の進め方に対して納得がいかなかったため。ソフトウェア受託開発においては、仕様に対する責任者を明確にする必要がある。日本は組織文化の問題で、責任の明確化ができず、結果として頻繁な仕様変更による手戻り工数の発生とソフトウェア品質の低下を引き起こしている。日本の顧客相手のソフトウェアビジネスで利益を出すのは難しいと考え始める。

2009年12月-2010年8月

ホーチミン市で、USCPA(米国公認会計士)試験の学習開始。動機は、「会社の経営を財務面から見てみたかったから」。米国アマゾンから教科書(Wiley)を購入した。4冊で3000ページにも及ぶ膨大な分量の学習内容だった。ベトナムの一番暑い季節(3月から5月)にエアコンの効かない暑い部屋で必死に勉強した(暑すぎてカフェで勉強することが多かった)。7月にハワイにて受験。8月に合格発表。BEC 83, FAR 92, REG 89, AUD 85 で一発合格。出来過ぎの出来で嬉しいというより驚いた。合格体験記はこちら。

2010年9月-2011年1月

せっかく USCPA 試験に合格したのだから、ベトナムで公認会計士として働こうと考えた。そのため、ホーチミン市で四大会計事務所(big 4)や中小の会計事務所に職を求めた。だがベトナムでは当然ながら、ベトナム人会計士を安い賃金で雇える。高い日本人会計士が必要なのは、日系企業との折衝のときだけ。需要がそもそもほとんどない。就職活動は難航。迷いの生じた私は、IT の世界に戻ろうかとも考える。初志に戻って、ベトナムで会社設立を目指す。法令を見るかぎり、所定の要件を満たせば、外資100%企業も簡単に設立できる、とある。そこで私はインターネットの資料を参考にしながら、自力でベトナム語の申請書と会社定款を作成。ところが、会社設立コンサルタントに相談すると、法令にはない実質的な最低資本金規制や手続きをスムーズにするための賄賂が必要だと言われてショックを受ける。新興国なんて所詮そんなものと言われればそのとおりなのだが、自分の肌にはつくづく合わないと思い、ベトナムでのビジネスを断念する。

2011年2月-2011年6月

日本に戻り、ある日本の顧客の短期のプロジェクトに従事。仕事の進め方に関する考え方で、この顧客と意見が衝突してしまった。私はどうしても責任の所在を曖昧にさせる仕事のやり方に馴染めないのだが、残念ながら、多くの日本の顧客がそういう仕事の進め方をしてしまう。日本の普通のベンダーはこういう顧客の仕事法を内心困ったものだと感じても我慢して仕事をするのだが。このプロジェクトが終了するやいなや、3月11日の東日本大震災が襲った。甚大な津波被害、続いて起きた深刻な原発事故。私はそれにすっかり気を取られてしまい仕事を忘れて調べ続けた。6月になって一段落して来たが、さて次の仕事は…?